2、優しい秘密



「いらっしゃい」
薔薇の館の扉が閉じると同時に、その凛とした声は、まるで私たちを待っていたかのように天井から降ってきた。
吹き抜けのフロアの上、声のした方を見上げるとその声の主は二階の廊下から手摺り越しにこちらを見下ろしていた。
この人は確か――紅薔薇のつぼみ、水野蓉子さま。
「薔薇さま方は?」
隣にいたお姉さまが声を潜めて聞いた。
「もう3人ともお揃いよ」
蓉子さまは、ゆっくりと階段を降りながら答え、階段の踊り場で柔らかく微笑んだ。
「ごきげんよう」
階段のつきあたりにはめガラスがあるのだろう、夕日の日差しに艶やかな髪をオレンジ色に染められてきらきらと輝いている。ほう、と知らずに溜息が漏れるそんな微笑だった。綺麗な人だな、と当たり前のようなことを思う。黒目がちな瞳。襟足で真っ直ぐに切り揃えられた黒髪。凛としたアルト。大人ウケしそうな正統派美人。
――お姉さまもお美しい方だけど
内緒話でもするように顔を寄せ合い、美しく語らう薔薇のつぼみの横顔を惚けて見ていたら、振り返ったお姉さまと目があった。お姉さまは全て見透かしているかのように、ふっと微笑んだ。ドキンと心臓が跳ねる。
「あなたが支倉令さんね」
向き直った紅薔薇のつぼみの問いに、はい、とそれ以上の言葉が見つからず、完結に答えると、その人は小さく首をかしげ微笑んで言った。
「薔薇の館にようこそ」
――山百合会って顔で選ぶのかも・・・
その時、本当にそう思った。


薔薇の館というところは想像していたよりずっと気さくな場所だった。
間近で見る薔薇さま方は噂のとおり、みな美しい人ばかりで、それに実力もおありなのだろう、年では2つしかかわらないはずなのに威厳に満ちていた。けれど、一般生徒が持っている近づきがたいという印象はすぐに改められた。薔薇さま方はみな厳しいながらもお優しい方たちであったし、1年生の指導に当たった紅薔薇のつぼみの水野蓉子さまは本当に面倒見のいい方だった。私と時を同じくして薔薇の館の住人となった小笠原祥子さんとも仲良くやっていけそうな気がしていた。


その日、薔薇さま方は学年集会があって、薔薇の館にはつぼみとその妹の4人だけだった。近日中に目立った行事もないから、薔薇の館に集まったのは、ただたわいもない雑談に興じるためだった。
「祥子ちゃんはどう思う?」
それは純粋な興味から出た質問だったと思う。おかわりの紅茶を目の前に差し出されたお姉さまが祥子さんの目を覗き込んで意見を求めた。薔薇さま方がいないのもあって、普段は会議や雑談の中ででも黙って聞くだけの私たち1年生も今日は珍しく話す側に回って、楽しくおしゃべりをしていた。お姉さまは祥子さんに興味が湧いたようだった。さっき、サンドイッチをナイフとフォークで食べる話で盛り上がったからかもしれない。
「私は・・・よく、わかりません」
けれど、聞かれた祥子さんは少し考えてからそう言った。大富豪の令嬢という肩書きと育った環境によるのもあると思う。祥子さんは自分の意見を言うのに躊躇いがあるようだった。「どう思うか」と聞かれると「わかりません」と黙ってしまう。
こういう場面は幾度かあった。下唇を噛んでぐっと何かに堪えるようなしぐさ。こんな時、蓉子さまは少し眉を寄せて、気にはしているようだったけれど、何も言わなかった。
「祥子」
けれど今日は違った。
「前から言っていたと思うけど」
そう前置きして、蓉子さまは嗜めるように言った。
「あなたのその態度、そろそろどうにかなさい」
蓉子さまが人前で祥子さんを叱るのははじめてのことだった。少なくても私は今までこんな場面を見た事がない。座ったままの蓉子さまより立っている祥子さんの方が小さく見えた。
「私は・・・」
祥子さんの両脇で拳が固く結ばれるのを私は見逃さなかった。よりいっそう唇が噛まれる。放っておいた方がいいのか、止めた方がいいのかわからず、お姉さまの横顔を窺ったけれど、お姉さまは顔色も変えず、目の前の2人のその様子を眺めているだけだった。黙ったままの祥子さんに、蓉子さまがしびれを切らしたように言った。
「言いたいことがあるならはっきりおっしゃい」
ぴしゃりという音が聞こえてきそうなほどの厳しい口調だった。祥子さんの体がびくりと跳ねて、蓉子さまを見つめ返したその目が潤んでいるのに気づいた。
まずい、と思って止めに入ろうとしたその時にビスケット扉が廊下側から開かれた。
遅れてやってきたその人は薔薇さまの内の誰でもなかった。鋭い目つきで部屋を見渡して何事かというように眉を寄せた。誰だろう?という疑問符が頭の中に浮かんだのは一瞬で、その疑問は祥子さんがその人の脇をすり抜けて扉の向こうに消えると同時にかき消されてしまった。
「祥子!」
「令」
立ち上がった蓉子さまの両肩に手を置いて、お姉さまがこちらを見ていた。私は言われるまでもなく、祥子さんを追いかけるつもりでいた。目と目があってお姉さまもそれを察したようだったけれど、お姉さまは黙って首を振った。
「ここをお願い」
一瞬意味を計りかねた。けれど、お姉さまが蓉子さまを席に座らせて、祥子さんの鞄と自分の鞄とを一緒に持ったところで、祥子さんを追いかける役をお姉さまが引き受けたことを悟った。
「あなたも来なさい」
そう言ってお姉さまは、扉の前に立ったままだったその人のカラーを引っ張った。そこで初めてその人が、白薔薇のつぼみだということに気がついた。お姉さまがしぶる白薔薇のつぼみを連れて扉の向こうに消えるまで私は身動きが取れなかった。
蓉子さまは椅子に腰かけたまま、頭痛がするときみたいに額に手を添えて思案に沈んでいるようだった。なんと声を掛けたらいいのかわからず、とりあえず冷めた紅茶を入れなおそうとテーブルの上に置いてあったカップを持ち上げると、蓉子さまはかろうじて顔を上げ、ああ、ありがとう、と放心したように言った。
――お姉さま、一体私にどうしろと・・・?
紅茶のカップを洗いながら、目の前の難題に悶々としていると隣に蓉子さまが並んだ。
「手伝うわ」
よほど驚いた顔をしていたのだろうか、蓉子さまは小さく笑った。
「あ、りがとうございます」
――どうしろというんですかお姉さま・・・!
心の中で助けを求めても、もちろん返事はない。蓉子さまが洗い終えたカップをきちんと2つ用意して紅茶を入れた。逃げ道は閉ざされ私は窮地に立たされた、と思った。
「江利子は・・・いいお姉さま?」
唐突に蓉子さまは言った。あまりに突然の質問だったから質問の意味を考える余裕もなかった。
「はい、いいお姉さまです」
言ってから心からそう思っているのだと他人事のように思った。だから、きっぱりとそう言えた。
「あなたがそう言うんだから、きっとそうなんでしょうね」
私の答えを聞いて蓉子さまは微笑した。その微笑が寂しそうで、ひどく切ない気持ちになった。
「私は、駄目ね」
カップをテーブルに運びながら蓉子さまは誰にでもなく言った。言葉は自嘲的なのに声は震えている。
「どうしたらいいのか、わからないのよ・・・こんなんじゃ、姉失格だわ」
泣いているのかもしれない。そう思ったら自然に体が動いた。テーブルに手をついてうつむく蓉子さまの肩にそっと触れると、蓉子さまは顔をあげた。その目が潤んでいることが何故だか私の胸を締め付けた。
「蓉子さまは祥子さんのこと、好きですか?」
蓉子さまは驚いたように僅かに目を見張った。けれど、すぐにふっと優しい目になった。
「好きよ、とても」
羨ましいな、と思った。蓉子さまにこんなに想われている祥子さんが羨ましい。
「祥子さんも好きですよ、蓉子さまのこと。とても、とても好きですよ」
どうしてすれ違ってしまうんだろう。蓉子さまは祥子さんが好きで、祥子さんは蓉子さまが好きで、お互い想い合っているのに、どうして――。
すごく、すごくお姉さまに逢いたくなった。
「ありがとう」
蓉子さまが言った。その顔はもう私が心配する必要はなさそうなほど晴れやかだった。微笑み返すと蓉子さまは少し言いにくそうにつけたした。
「今の、秘密にしてくれる?」
ほんのりと頬を朱色に染めた蓉子さまは、年上の女性に対して失礼ながら、かなり可愛かった。わかりました、と快く承諾したところで、自分の手がどこに置かれているかに気づいて、慌てて肩に回していた手を引っ込めた。
「す、すみません」
謝罪したのに、いいえ、と蓉子さまは肩を震わせて笑いを堪えていた。なんだか気恥ずかしくなって、そそくさと席につき、紅茶を啜る。その様子を蓉子さまは愉快そうに眺めて言った。
「令ちゃんのことも好きよ」
ぶっと紅茶が口から吹き出した。あはは、と蓉子さまは今度こそ声を出して笑った。
「もう!からかわないでください!」
私は生まれてはじめて、自分の耳が赤くなっていく音を聞いた。






NEXT

-Powered by HTML DWARF-